2026/06/01
企業法務
「会社の借金は会社の借金であって、社長個人は関係ない」——そう思っている中小企業の経営者は少なくありません。確かに株式会社は法人格を持ち、原則として株主は出資額の範囲でしか責任を負いません。しかし、取締役(役員)はこの保護の外にいます。
取締役は会社との関係において委任契約上の義務を負い、その義務に違反した場合には会社や第三者に対して個人として損害賠償責任を負う可能性があります。近年、株主代表訴訟の件数は増加傾向にあり、また会社が倒産した際に取引先や従業員から役員個人が訴えられるケースも珍しくなくなりました。
本稿では、取締役の義務の中核をなす「善管注意義務」の内容を丁寧に解説したうえで、中小企業の経営者が実際に責任を問われやすい場面と、具体的な予防策をご紹介します。
善管注意義務とは、「善良な管理者の注意をもって職務を遂行する義務」のことです。会社法第330条は、会社と取締役の関係を民法上の委任関係と定めており、民法第644条が委任を受けた者に善管注意義務を課しています。
ここでいう「善良な管理者」とは、その人が実際にどれほどの能力を持っているかではなく、その地位・職業・状況に置かれた人が通常発揮すべき注意能力のことを指します。つまり、「自分はそういうことが苦手だから」「知らなかった」という言い訳は原則として通用しません。
会社法第355条は、取締役に対して「法令及び定款並びに株主総会の決議を遵守し、株式会社のため忠実にその職務を行わなければならない」という忠実義務も課しています。善管注意義務と忠実義務は概念的には重なる部分が大きく、実務上は一体として論じられることが多いです。
善管注意義務違反として問題になりやすいケースを整理します。これらは実際に裁判例でも取り上げられてきた類型です。
十分な市場調査や財務分析を行わないまま多額の資金を新規事業に投入し、会社に損害を与えた場合です。ただし、後から見て失敗だったとしても、意思決定時点で合理的なプロセスを踏んでいたかどうかが判断基準になります(経営判断原則)。
部下や他の役員が横領・着服・粉飾決算などの不正行為を行っていたにもかかわらず、監視を怠って放置した場合です。「自分は知らなかった」という主張が通るためには、知ることができなかった合理的な理由が必要です。
労働基準法違反の長時間労働、消費者契約法違反の勧誘行為、食品衛生法違反の営業など、会社が法令に違反した状態を是正しなかった場合です。取締役には法令遵守の体制を整備する義務があります。
取締役が自己の利益のために会社の資産を低廉な価格で購入する、会社が取締役個人に過剰な報酬を支払うなど、会社の利益を犠牲にして取締役が利益を得る行為です。取締役会の事前承認なく行った場合、損害額を賠償する義務を負います。
会社が財務危機に陥っているにもかかわらず、一部の債権者にだけ弁済する(偏頗弁済)、資産を廉価で処分する、新たな借り入れを行うなどの行為は、第三者に対する責任(会社法第429条)を問われる典型例です。
中小企業では、オーナー兼社長が取締役を兼ねているケースが多く、大企業とは異なる特有のリスクが存在します。
オーナー経営者の中には、自分が設立した会社の資金を自由に使えると誤解している方がいます。しかし、会社の財産と個人の財産は法律上別物です。会社の資金を私的流用すれば、それは横領罪(刑事責任)にもなりえますし、会社への損害賠償責任(民事責任)も生じます。
配偶者や子どもを役員・従業員として雇用し、実態に見合わない高額な報酬を支払うことも問題になります。会社の損害として株主や他の取締役から責任追及される可能性があります。
中小企業では経営者が銀行借入について個人連帯保証をしているケースが多く、「どうせ個人保証をしているから、会社が倒産しても責任は同じ」と考える方もいます。しかし、善管注意義務違反による役員責任は、連帯保証とは別の問題です。連帯保証で支払った額を超える追加の損害賠償責任を負う可能性があります。
中小企業では取締役会が形式的にしか機能していないことが多く、重要な経営判断が社長一人の判断で行われているケースが少なくありません。取締役会を適切に開催し、議事録を残すことは、後の責任追及において「適切な手続きを踏んだ」という証明になります。
「経理は税理士に任せている」「財務諸表を読めない」という経営者も多いですが、取締役は会社の財務状況を把握する義務があります。財務内容を把握せずに経営していた場合、それ自体が善管注意義務違反とみなされる可能性があります。
取締役の責任はどのような手続きで追及されるのでしょうか。主な方法を解説します。
会社法第847条に基づき、株主が会社に代わって取締役の責任を追及する訴訟です。まず株主が会社に対して責任追及の訴えを提起するよう請求し、会社が60日以内に訴訟を提起しない場合に株主自身が訴訟を起こすことができます。
特徴的なのは、勝訴した場合の賠償金は会社に帰属するという点です。株主が個人的に利得を得るわけではなく、あくまで会社のための訴訟です。弁護士費用は相当の範囲で取締役に請求できます。
中小企業でも、少数株主(持株比率1%以上または300個以上)であれば提訴できます。後継ぎ問題や経営権争いの場面で活用されることがあります。
会社自身が取締役に対して損害賠償を請求する訴訟です。会社が解散・清算する場面や、新経営陣が旧経営陣の責任を追及する場面で用いられます。
取締役が悪意または重大な過失によって第三者に損害を与えた場合、その第三者は直接取締役個人に損害賠償を請求できます(会社法第429条)。倒産した会社の取引先や従業員が、役員個人を訴えるのはこのケースです。
「悪意または重大な過失」の基準について、裁判例では比較的緩やかに解釈される傾向があります。財務状況が悪化していることを知りながら取引を継続した、支払い能力がないのに商品を仕入れた、などの行為が認定されることがあります。
会社が破産した場合、破産管財人が取締役の責任を調査し、追及することがあります。破産管財人は会社の利益のために活動するため、経営者が自らに有利な処理を行っていた場合には厳しく追及されます。
善管注意義務違反のリスクを最小化するために、経営者が日常的に取り組むべき対策を具体的に解説します。
重要な経営判断を行う際には、情報収集・専門家への相談・取締役会での審議・議事録の作成というプロセスを踏むことが重要です。後から「なぜその判断をしたのか」を説明できる記録を残しておくことが、責任追及への最大の防御になります。
特に大きな投資・借入・資産処分・役員報酬の変更などの際は、必ず取締役会決議を経て議事録を作成してください。
会社法は一定規模以上の会社に内部統制システムの構築を義務付けていますが、中小企業でも基本的な仕組みは整備すべきです。具体的には、職務権限規程の策定、決裁権限の明確化、経費精算ルールの整備、定期的な監査・チェック体制の構築などが挙げられます。
月次で損益計算書・貸借対照表・キャッシュフロー計算書を確認し、会社の財務状況を常に把握してください。赤字や資金不足のサインを早期に発見し、適切な対処をとることが、後の責任追及を防ぐうえで重要です。
財務諸表を読むことが難しいと感じる方は、顧問税理士や公認会計士に定期的な説明を求めることをお勧めします。
取締役の責任追及に備えて、役員賠償責任保険(Directors and Officers Liability Insurance、D&O保険)への加入を検討してください。訴訟費用や賠償金の一部をカバーすることができます。
2021年の会社法改正により、会社が役員のためにD&O保険の保険料を負担することが明確に認められました(会社法第430条の3)。中小企業向けの比較的低額な保険商品も増えています。
弁護士との顧問契約を結び、重要な経営判断の前に法的リスクのチェックを受ける体制を整えることをお勧めします。特に、M&A・新規事業への参入・大型契約の締結・労使問題・コンプライアンス上の問題が発生した場合などは、早期に弁護士に相談することで、リスクを大幅に低減できます。
善管注意義務違反による責任は、在任中の行為について退任後も追及される可能性があります。消滅時効は原則として権利を行使できると知った時から5年、または権利を行使できる時から10年です。退任後も、在任中の問題となりうる行為について記録を保存しておくことが重要です。
取締役の善管注意義務は、会社経営の根幹をなす法的義務です。中小企業であっても、オーナー経営者であっても、この義務から逃れることはできません。
重要なポイントを整理します:
「会社のことは自分が一番よくわかっている」という自信がある方ほど、思わぬリスクに無防備なことがあります。ぜひ一度、自社の経営体制を法的な観点から見直してみてください。
取締役の責任や企業ガバナンスについてご不安な点がある場合は、お気軽に当事務所にご相談ください。初回相談は無料で承っております。